数日前、部屋でよろめいた拍子に扇風機に激突し、破壊するといういたましい事故が発生した。破壊などという物騒で攻撃的な言葉を使ったが、その実、大したことはなく、一般に普及しているタイプの扇風機に見られる放射状に張られたガード構造の前後を固定する留め具のかみ合わせが悪くなり、常時ファンがむき出しの状態になってしまっただけで使用は可能だ。最悪の事態は免れたわけだが、ここでひとつ、幼い頃に抱えていたしょうもない疑問が頭をよぎることになる。

「このガード構造がなければ、ファンが回転しながら正面方向に打ち出されて飛んでいくのでは?」(ベイブレード方式)

 実に稚拙な疑問かもしれないが、発射されないとも限らない(新しい、古いなどの条件次第では発射されかねない)という危うい難問である。そんな疑問から、ガード構造を失って数日の間、使用を自粛していたのだが、季節がらということもあり、ついに使用を決意。発射されたら面白いという淡い期待と恐怖の現れなのか、無意識に横から攻める自分がいた。ただ、スイッチをいれてみればあっけないもので、飛び出すなどという劇的な展開もなく(あくまでうちのタイプは)、こうしてブログにも書くことがなくなってしまった。むしろ、書くことがなくなってしまうことを気づけないオツムに重大な問題を抱えている。

  疑問は解消されたものの、むき出しになった巨大なファンが目と鼻の先で高速回転しているというのは中々スリリングなもので、横を通りかかる時などに油断して、ズボンのすそが巻き込まれかけたりすると「ブボボッ」などという不穏な音がして命の危険を感じる。あなたがもし、節度とお金のある人間ならば、扇風機のガード構造が破壊された場合は大人しくエアコンを使うなり、別の扇風機を買おう。

 

 あたりまえ体操~(あたりまえ体操をよく知らない。)

 

 

 「ハクソー・リッジ」という映画を見た。

 メル・ギブソンが監督で、太平洋戦争中の沖縄戦線で激戦区だったと記録されているハクソー(hacksaw)と呼ばれた崖の上を舞台に、信条を掲げて武器を持たない衛生兵の主人公が多くの米兵を救ったという実話を元に制作された映画だ。

 ここで僕があえて(あえてというのもおかしいが)太平洋戦争と記述しているのには理由があって、この映画は徹底的に日本側の心理描写が排除されていて、もはやプロパガンダ的な様相を呈しているからだ。

 実際に映画を見るとわかるが、日本人(クレジットを見たがおおよそ日本人が起用されている)のセリフはない。一応聞き取れますが、それはガヤというレベルで、恐らく現場でもアドリブで俳優にしゃべらせていた気がする。結果、どういった描写になっているかというと、「クレイジージャップの死をも恐れぬ猛攻に我が国の兵士が無残に殺されている。奴らは悪魔の戦闘民族で、絶対に殲滅しなければならない。」という、先住民を対話不能の絶対悪として駆逐するといったような、それはかつての西部劇を彷彿させる。よりヒロイックにする演出なのであろうが、まるで敵対勢力人間性、感情を排したおおよそ容認できるものではない。これは本土に攻め込まれて殲滅戦を仕掛けられた日本人側の意見であることに他ならないと言われればそれまでだが、人権の意識が極まっているこの現代でこのような残虐な殺戮行為を、史実に基づいたかつての出来事、当時の感覚を描いているとしても、あまりに無慈悲で一方的であると感じた。その点は、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」の二作にまたがって両者の視点を補完したイーストウッドの手腕が再評価されるきっかけにもなるだろうとも思う。

 そして、問題は、その一方的で無慈悲な渦中にあって懸命に命を救い続ける武器を持たない一人の米兵の英雄的行為によって戦争とはいかに無意味でなんとおぞましいかということを改めて心に留める、のではなく多くの仲間を救ったその奇跡的な行為をもって主人公が勝利を導くシンボルとして信条を無理に曲げて(宗教的に安息日とされた日に出撃)戦線に投入されるということ。今まで散々ないじめにあって、上官に結婚式まで潰され、挙句刑務所にぶち込まれかけても曲げなかったはずなのに、手のひらを返した仲間たちに「お前が必要だ」とねだられると信条を曲げてまで戦意高揚の旗印にされてしまうところにまったく辟易した。戦争批判などまるでする気がないところは清々しさすら感じる。

 神を信じ、信仰心だけを持ってやって来た戦場で、個人が無視され、圧倒的暴力によって死んでいく光景を目にした主人公が神の不在を悟ったとき、一人でも多く、目の前の命だけでも助けようと奮闘した結果、それを奇跡と称され神のように祭り上げられるというまったく皮肉な構成になってしまった。プロパガンダとして非常に有効な映像であったことを認めざるを得ないが、これが果たして十年代に作られた映画とは、お笑いにもほどがある。

 監督のメル・ギブソンは傾向として一人の男が英雄になる神話が好きなのだろうが、だったら開き直ってヘラクレスなどを題材に怪物と戦ったり、エイリアンのような対話不能の地球外生命体との戦いを描けばいい。下手に史実を持ち出して文化人を気取ろうとするからややこしいことになる。

 ここからは邪推になるが、主演のアンドリュー・ガーフィールドが、メル・ギブソンの存在を意識した途端、二人の容姿がかなり似ていると感じた。恐らく、「若ければ俺がやった」という感情があったはずだし、アンドリューに自分を重ねていたに違いない。前述の、英雄が好きというか、ウィリアム・ウォレス然り、彼は英雄になりたい願望が人一倍強いんじゃないか。ただ、僕は彼が英雄になる映画、「マッド・マックス」や「リーサル・ウェポン」が大好きで、だから、何も考えずに最強を演じていたあの頃に戻ってほしい。

 

 

1

 これが最後になると確信していたセックスが終わると、私は煙草を燻らせながら別れ話を切り出していた。好んで吸っているものと違うパッケージが私を苛つかせる。定番の問答を一通り済ませたところで、思い出したように詰め寄った。

「それはそうと、いつも九ミリって言ってるよね。」

 頼んでもないのに彼が買ってきてくれる煙草はいつもミリ数が違う。その旨を、その都度伝えても、彼は一つ下の六ミリを選ぶ。その違いは微々たるものだが、彼なりに私の健康を気遣ってくれているんだと思うとそんな小さな優しさが微笑ましい時期も確かにあった。

 少しの沈黙があり、彼は口を開いたが、煙草の話には触れていない。

「もしも魔法が使えたら、ぼく達の関係を修復できるのかな。」

 また子供じみたことを言い出したと、漏れそうになる溜息を堪えた。男という生き物には少なからずこういうところがある。少年の心を忘れていないだとか、時には純粋などという言葉を使って美化するような性質を私は嫌いであると同時に愛してもいた。彼との関係も、当時はひたむきと美化したアプローチに心惹かれたのが始まりだ。それも今となっては、しつこいというネガティブに置き換えられて同僚に愚痴られているのを知ったら、子供っぽい彼は泣いてしまうのだろうか。背中を向けていても、今、彼が爪を噛んでいるのは容易に想像できる。

 私はしばらく考えているようなポーズをとって、私の回答を示した。

「出逢わなかったことにできるなら、それが二人にとっても幸せじゃない?」

 付き合い始めて半年弱、半かば同棲のように互いの家を行き来する生活に慣れてしまった。相手の知らなかった部分、それは考え方であったり、仕草やくせのようなもの、自分のテリトリーに他人がいる感覚がとても新鮮で、日々の生活に彩りを与えていたものが、些細なことであっても、次第にそれが気になるようになって、そういう小さな綻びの積み重ね、いわゆる倦怠期ってやつかもしれないけれど、その程度で終わってしまうならそれまでとむしろ清々する。

「それじゃ、ぼく達、もう一度出逢って、はじめからやり直そう。」

 彼にきっと悪意はない。彼のそういう無邪気なところが好きだった。でも、今は腹立たしい。本気で言っていたとしたらなおさらだけれど、たとえ、それが機転を利かせたつもりのジョークだとしても、今は笑えない。ぼく、という一人称にすら苛立ちをおぼえはじめたところで、私はついに「まるで稚拙。」と口を滑らせて、終わったかなという手応えを感じた。

 肌寒いわけではない。ただ、服を着ていないのが恥ずかしくなって、私はベッドの上で体をくねらせると、いじけたような彼の姿が見えた。彼の爪を噛むくせは何度注意しても治らなかった。

 

 

 

 

はてなブログより提供、今週のお題「もしも魔法が使えたら?」。